ジャパニーズウイスキーの歴史3
2024年7月5日
日本のウイスキーの父、鳥井信治郎と竹鶴政孝
国内では長い歴史をもつ日本酒醸造元や、焼酎の蔵元が広く存在していたが、
ここを基盤として明治以降、アルコール製造も産業化の道を進んだ。
1899(明治32)年に通商の改定条約実施の詔書が発布され(不平等条約の解消)、
アルコールの輸入税が増加されたことと、1901(明治34)年に酒税が改定、
酒精含有飲料税法が発布されたことで、模造洋酒製造者の採算は悪化し、
安価な輸入アルコールに頼っていた中小の洋酒業者は撤退を余儀なくされてしまった。
かわって台頭したのが、国産のアルコール蒸留業者で、
当初は大麦、トウモロコシ、サツマ芋などが原料に用いられたが、
やがて台湾産の切干甘藷(かんしょ)が安く手に入るようになり、
これで大量の醸造アルコールが造られるようになった。
さらに日清・日露両戦争の頃に、
台湾で盛んになった製糖事業で生じた廃糖蜜(モラセス)から生産される醸造アルコールが輸入され、
国内製造者は競争を強いられることになるが、
需要の拡大もあって産業として発展していった。
日清戦争後の1895(明治28)年頃より、
アルコール製造のためのイルゲス式連続式蒸留機が日本へ輸入されており、
1910(明治43)年に愛媛県宇和島で連続式蒸留機を使って、
切干甘藷(かんしょ)から新式焼酎(ハイカラ焼酎)が造られている。
代表的メーカーとしては、神谷伝兵衛が関わったアルコール工場が
1900(明治33)年頃より北海道旭川で稼働。
さらに神谷酒造では1906(明治39)年にウイスキー造りも始めている
(旭川工場はその後、合同酒精へと発展)。
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